楽器の大衆化に見るDXの本質

インターネットができて情報が民主化したという文脈は皆さんも良く耳にすると思います。
それまでは一部の権力や大資本しか扱えなかったコンピューターやネットワークを老若男女が手にして、かつ、そのコンテンツである情報にアクセス可能になったいうのが「IT革命」の本質で、これまでもこのブログで議論してきた通りです。

「技術の大衆化」というキーワードは私がこの25年追いかけているテーマです。例えば、テスラによってEV化した車は、それを体現したとも言えます。エンジンやミッションといった重要な機関は極端に複雑なメカニズムであったため、研究開発や実装に大きな資金や人的資源の投入とを必要としてきました。EV車はそうしたことから開放され、開発経験の少ない新規事業者の参入障壁を取り除くことにつながって、自動車の開発、生産、販売が大衆化してきていると言っても過言ではありません。

金融もテクノロジーとして捉えれば、私たちが一括払いでは買えない家や車をその担保価値と引き換えに月賦で変えるようになったのもファイナンスの大衆化と言えますし、予防接種もテクノロジーとして捉えれば、これも大衆化して、広くあまねく、日本国民は、ウィルスなどに対して安心な生活を手にしているのです。
もう少し俯瞰すると「教育」もまた大衆化したと言えます。
高等教育である大学が「大学全入時代」と言われて久しいですが、「読み書き算盤」が全国民に浸透したのもまた、教育という一種のテクノロジーが大衆化したことに由来します。

この文脈で、私がここ10年興味をもっているのが「音楽」です。
マックス・ウェーバーが『職業としての学問』や『職業としての政治』を書いたのは1919年の講演をもとにしてですが、そのはるか昔の欧州の音楽家は、宮廷音楽家がほとんどでした。つまり貴族のために音楽をつくり、そして演奏したのです。今私たちが耳にするクラシック音楽の多くはこれに由来します。つまり、この時点で音楽はまったく大衆化しておらず、先の車のエンジンやミッションのように、一部の権力や大資本だけが牛耳っていたのです。この場合、権力は貴族などの特権階級で、大資本は、さしずめ、メディチ家といったところです。

楽器もまた一部の特権階級のものでした。「フレットレス」(指板にある隆起やマーキングがない弦楽器のこと)という言葉がありますが、バイオリンなどの弦楽器の多くはフレットレスで、相当な練習をして感覚(音感や奏法)を身につけないと正しい音が出せません。一方、そういった弦楽器よりも後に開発されたピアノなどはーーその原型はハプシコードですがーー「ド」を割り当てられた鍵盤を叩けば、誰でも、正しい「ド」の音が出るため、フレットレスの楽器よりも、一段、簡単になり大衆化したと言えるのです。しかし、そうは言ってもです。ご承知の通り、1オクターブの間に12の鍵盤(白鍵7、黒鍵5)があり、1鍵盤あたり白鍵が約20mm、黒鍵が約8mmですから、これをミスなく両指を駆使して音を出せ、というのは、当然ながら相当な練習が必要で、奏法自体はいまだ大衆化したとは言えないと思うのです。

しかし、これにチャレンジしたのが、楽器の電子化です。鍵盤楽器をやる方はよくご存知の通り、ある曲をハ長調で弾く場合と、ト長調で弾く場合では、黒鍵の数が違ってきます。後者はファに#が入るため黒鍵が1つ入って、ハ長調より複雑になります。すべての音階でこの曲を弾こうとすると、12パターンの白鍵と黒鍵が入り混じった動きが必要になります。すべての音階で一つの曲を弾くのは、相当程度、音楽と楽器が身に付いていないとできない訳ですが、楽器が電子化したことで「トランスポーズ」という機能がつき、一つの音階で(例えばハ長調)その曲が弾ければ、ボタン一つで、仮に「+1」に設定すれば、その瞬間、黒鍵5つすべてを使い、弾くのに非常に苦労する嬰ハ長調(C#)に転調することが可能になります。これは相当大きな進歩で、長い楽器の歴史の中で、アコスティックピアノにこの機能を実装し、ハンマーと弦を移動可能な仕組みを検討した開発者もいましたが、あまりに大掛かりですべて失敗してきました。しかし、楽器のデジタライゼーションは、いとも簡単にそれを実現してしまったのです。

例えば、ヤマハという会社は、電子ピアノ以外にも、エレクトーンの商標で知られる電子オルガンを開発し、これに財団法人ヤマハ音楽振興会(1966年設立、現一般財団法人)が加勢し、日本のみならず、世界にその「教具」としてのエレクトーンを使った教育を広めました。いわずもがな、エレクトーンは、誰もがフルバンドの音楽を奏でられる夢の楽器になったのです。
しかし、エレクトーンは1台50万円の上が当たり前の楽器で、入門機は廉価であっても、後に買い換えが必須となることもあり、バブル景気に沸いた日本には定着するものの、それなりの場所を取るため、住宅のマンション化などにしたがって、同時に景気減退でその勢いを失って行ったのです。

一方、それと平行して、シンセサイザーと呼ばれる電子楽器が盛んになってきました。
冨田勲氏などシンセサイザー音楽家と呼ばれる音楽家が世に出たり、坂本龍一率いるYMOが一世を風靡したりしましたが、元々はプロやセミプロが使う特殊なデジタル鍵盤楽器でした。しかし、80年代に入り、ヤマハはTMネットワークとしてデビューした小室哲哉というタレントをスーパーバイズする形で、このマニアックな楽器を一気に表舞台に出しました。この時の勢いは、タレントへの物品提供の域をはるかに超え、もはや、プロダクトプレイスメント的な手法になっていたように思います。

その時、ヤマハが誇るシンセサイザーにDX7(1983年発売)という楽器がありました。今やシンセサイザーの名器となっていますが、しかし、この時点で、当時の本体単体の価格は24万8000円でおいそれと人々が手にできる価格ではありませんでした。そこで、ヤマハは、その大衆化を図るべく、小室哲哉によってプロデュースしたEOSというシリーズのシンセサイザーを1988年に10万円台半の金額で世に出し、これが大ヒットするのです。

ただし、いわゆるキーボード(鍵盤)は健在で、その訓練を受けた人にしか弾けないわけで、まだ完全に大衆化したとは言えませんでしたが、先の財団の成功により、多くの人が小さいときから鍵盤に親しんでいたため、少し鍵盤に慣れていれば、難しい音階が自動で奏でられるアルペジエーター機能を使うことで複雑な演奏がこなせるようになりましたし、ほとんど鍵盤を弾けなくても譜面を入力していくことで、音楽が完成するいわゆる「打ち込み」による演奏補助・自動演奏もこの時に爆発的に流行るのです。

この「打ち込み」はシーケンサーと呼ばれる機能に依拠しますが、ついには、大衆化を阻害している鍵盤無しのシンセサイザーとしてそのシーケンス機能に特化したQYシリーズが登場し、電車の中で通勤中にイヤホンをして音楽を作ったり編集したりする「楽器」が登場するのです。

もはやこの段階で、それらは、パソコンなのか、楽器なのか、その境界線は曖昧になりはじめていましたが、しかし「鍵盤からの開放」は、イコール大衆化を意味しているのではないかと、当時感じたのを今でも覚えています。
それから数十年の月日を数えますが、これらの歴史的シンセサイザーは、当時、1台数百万円以上したような高価なものが、今ではアプリとして再現され、数百円から数千円になってデリバリーされています。また、鍵盤がなくても、音楽を作ったり、編集したりできるようなアプリも大量に出ており、ゲーム感覚で作曲できるニンテンドーSWITCHのゲームアプリも出てきました。いわゆる、小さき時に親に半ば強要されてピアノを習得したことの無い人でも、だれもが、高度な音楽を作ることができるようになったのです。
つまり、ヤマハのような会社の楽器のデジタライゼーションの挑戦は、楽器の大衆化の歴史と言っても過言ではないのです。

さて、学校へ行くと、必ずピアノをはじめとする鍵盤楽器があります。これは「教具」としての楽器です。つまり「教育」というプラットフォームを利用して、楽器を大衆化させたその様は、以前このブログで述べたように、アルバート・ゴア・ジュニアが「教育」予算を利用して、全米の学校や図書館をインターネットで繋いだNII(National Information Infrastructure)とまったく同じ構造なのです。

鍵盤楽器に限らず、弦楽器や管楽器も同様にデジタライゼーションされ、安く良い音が出る楽器が開発され、当初はそれはおもちゃのような出来栄えなのですが、プロのミュージシャンに物品提供されることで、マーケットが開けてくるのです。
となると、もともとの、ピアノ、とくにグランドピアノのような重厚長大なものは、完全に「芸術品としての楽器」となってしまい、マーケットもシュリンクしていくのかもしれません。事実、ピアノも都市部の住居の変遷と、デジタル音源の成長により、どんどん電子ピアノに置き代わり、いわゆるアコースティックピアノのマーケットは小さくなっていきます。

そうした社会状況の中で、大衆化した楽器によって、多くの人はその恩恵を受け、音楽を手軽に楽しめるようになってきています。しかし、これはサステナブルなのでしょうか。インターネットの多くのサービスがサブスク(料金を支払い一時的に利用すること)になっているように、楽器もまた、1台のモノとしての付加価値がどんどん下がり、そのビジネスモデルが移り変わってきています。

もちろんヴァルター・ベンヤミンが議論した「アウラ」みたいなものがあり、1台数千万円するグランドピアノは、その尊敬の対象として健在であるわけですが、しかしそれは、テクノロジーの大衆化の文脈においては、バーチャルでしかありません。
アウラ:オリジナルの芸術作品にのみに宿るオーラ

DXが進む社会といのは、言い換えると、効率化と大衆化の社会かもしれません。「アウラ」のある本体は尊敬の対象として「どこか」に厳重に保管されているのですが、私たちは、大衆化したコピーのようなものを使っては捨てを繰り返す社会です。詳細は紙幅の都合でここでは省きますが、事実「スーパークローン文化財」という概念もあり、東京芸術大学などがこの研究に取り組んでいます。文化財を精密な3Dデータで後世にしっかり残していくようなイメージです。この議論は首里城の火災のときもフォーカスされました。もはや「本物」は何かというのは「アウラ」でしか説明が付かなくなってきています。それがDXが進む社会の一つの側面であることは疑いの余地もありません。ベンヤミンの議論は彼の代表作である『複製技術時代の芸術』で昇華していますが、「複製技術」というのは、今の時代においては紛れもなくデジタルのことであり、今流の「複製技術時代」というのは、まさにDXが進む社会の時代だと言えると思います。



ガーディアン・アドバイザーズ株式会社 パートナー 兼 IT前提経営®アーキテクト

立教大学大学院 特任准教授

高柳寛樹

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弊社支援の事例をまとめた資料については弊社の IT 前提経営®︎ アドバイザリーページ よりダウンロード頂けます。

高柳の著書はこちらよりご参照ください。

「IT 前提経営」が組織を変える デジタルネイティブと共に働く (近代科学社digital)2020

まったく新しい働き方の実践: 「IT 前提経営」による「地方創生」 (ハーベスト社)2017

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