クロージングの確度を上げるためのインフォームド・ジャッジメント

社会人駆け出しの頃、M&Aが今ほどには日常化していなかった頃の上司に「世の中でM&Aを経験したという人間はたくさんいて、1つの案件があれば何十人も経験者を名乗る人が出てくるが、M&Aを取りまとめられる人間はほとんどいない」と教えられたことを覚えている。証券会社のM&A部署が企業情報部とか企業提携部とかいう名前を用いていた時代。それから20数年、今やどれだけのM&A経験者がいるのだろうか。そして、取りまとめられる人はどれほどの数になったのであろうか。

当時の上司の言葉のとおり、M&A取引を成約まで運ぶのは簡単なことではない。M&Aのマッチングサイトも数多く生まれてきている昨今でも、相手が見つかることは取引のスタート地点であり、成約させ(クロージング)てゴールするためにはまだ遠い道のりが待っていることに変わりはない。

クロージングの成否には多くの作業と判断そして運が必要になるが、不確実な要素や他力本願な要素をできるだけ排除して、その確度を上げるための最大のポイントとして、インフォームド・ジャッジメント(十分な情報に基づいた適切な判断)を取り上げてみる。


M&Aは嘘やごまかしの利かない取引である


コンビニでおにぎりを買うこと、Amazonでポチる、毎月のスマホの契約、値札のない時価の高級寿司、マンションの購入と住宅ローンから、Web制作会社への発注、商品や材料の仕入れ、オフィスの賃貸借契約等々、さまざまな取引が日々行われている。その中でM&Aという取引は、扱う金額が大きく、会社や関係者に及ぼす影響力も大きく、実行にきわめて慎重な判断を要する部類に属する。

M&Aを行おうとする取引当事会社は、経営企画部をはじめとして社内の貴重な人員リソースを投じて、弁護士・会計士などの専門家に入念なデューデリジェンスを依頼し、アドバイザーにプロジェクトマネジメントや助言の役割を任せてでも慎重に進めている。そこでは、おにぎりを買う時に少々の価格差は気にしないであるとか、複雑でわかりにくいが取り敢えず契約してしまうスマホのプランであるとか、ちょっと推しの強い販売員に勧められて買ってしまったジャケットだとか、そういった類の判断は行われない。

日常的な取引には、 情報の非対称性 を活用することで一方に有利になるように行われていることが多々ある。しかし、M&Aにおいては、情報の非対称性を活用して有利に取引を成立させることは期待しにくい。取引開始時に売り手と買い手との間で情報の非対称性があっても、買い手はデューデリジェンスや譲渡契約書での手当などを通じて、その非対称性を満足いくまで解消しない限り、取引に応じない。つまり、相手の無知や情報不足に期待したり、嘘やごまかしで相手に誤った判断を促して取引を成立させられることは基本的にないと言ってよい。そのため売り手も積極的に情報提供を行い、非対称性を解消していく行動を取る。

なお、売り手が競争環境を醸成して市場原理を活用すると、買い手は価格の出し渋りが効きにくくなるし、1対1での相対取引よりも見えない要素が増え、誤解を恐れずにいえばウソは禁止だがハッタリは許されるようなルールの中でのせめぎ合いが行われる。複数の買い手がいる場合には、買い手はお互いに見えない敵と競わなければならない状態になるが、このような状況下であっても、買い手は慎重さを失うことはなく、必要な情報を集め、運任せの要素をできるだけ減らすことに努める。やるからには競争相手に負けることがあってはならないし、勝てるか勝てないかわからないような運任せの状態にならないようにし、人事を尽くして天命を待つのは最後の最後の行動になる。また、売り手が架空の競争環境を演出したとしても、それが最後までバレることなく進むかは運に身を任せることになる。


都合の悪いことを隠したり問題を先送りするメリットはない


M&Aの取引では、買い手はデューデリジェンスを通じて情報の非対称性を埋めてくるし、それが満足いくもので、取引実行の判断を行うに支障がない状態になるまでは契約書にサインしない。さらに買収代金を送金するまでに合意を撤回できるクロージング条件を通常は契約書に入れるため、サインしてもまだ終わりではない。ある弁護士から「リーガルアドバイザーの役割は、最後の送金の瞬間まで取引を撤回できる状態にすることだ」と言われたこともある。

これまで何社かでM&Aの仕事をしていて、社内外問わず、情報の非対称性の構築を試みる方々を見てきたことがある。それまでの仕事や人生において情報の非対称性による成功体験があるのかも知れない。しかし、その努力と試みがクロージングに貢献したことを見たことはほぼない。

このような慎重な取引となることから、その意思決定は、運頼みではなく、十分な情報に基づいた適切な判断としてのインフォームド・ジャッジメントであることが求められる。誰によるインフォームド・ジャッジメントが必要かというと、取引当事者の実質的な意思決定者。社長かも知れないし、取締役会かも知れないし、担当役員、事業部長かも知れない。大株主であるかも知れないし、不特定多数の株主の集まりか、政府かも知れない。

報連相と隠し事の関係で大雑把に例えてみる。部下が上司に対して適切なコミュニケーションにより十分な情報を提供すれば、上司の適切な判断を得られ、業務上のミスは防ぎやすいし目標も達成しやすくなる。その場しのぎの先送りや隠し事は、時限爆弾にしかならない。時限爆弾が爆発しないことを祈っても、それは危険な運任せになる。プロジェクトチームやアドバイザーは意思決定者のインフォームド・ジャッジメントに努める必要がある。


インフォームド・ジャッジメントという概念


インフォームド・ジャッジメントとは、聞きなれない言葉かと思う。Googleで検索すると経済産業省の「 公正な M&A の在り方に関する指針 」というペーパーが表れる。そこでは、MBO等の局面において、「買収者と一般株主の間の情報の非対称性により、取引条件の妥当性等について一般株主が十分な情報に基づいた適切な判断(インフォームド・ジャッジメント)を行うことが難しいことを踏まえて、一般株主に対して、適切な判断を行うために必要な情報を提供し、適切な判断を行う機会を確保する。」という文脈で使われている。

Googleの検索結果をさらに見ると、2000年代半ばのロームや富士フィルム、新日鐵などの買収防衛策に関するプレスリリースも登場し、買収提案に対して「株主が十分な情報と相当な検討期間に基づいた判断(インフォームド・ジャッジメント)を行えるようにすること」という文脈で使われている。

これは当時、経済産業省が日本における買収防衛策のルールを構築するために企業価値研究会を組成し、そのメンバーであった米投資銀行ラザード日本代表の畠山康さんが米国での経験をもとに日本に持ち込んだ概念になる。畠山さんの鞄持ちをして研究会に同行していた小職はこの概念を教え込まれ、各社の防衛策の導入支援においても先の通りに用いた。また、私が一緒に仕事をさせて頂いていた時は、畠山さんは手がける全ての案件を100%クローズさせていた。そのような人は後にも先にも出会ったことがない。その中で貫徹されていたのは、クライアント経営陣へのインフォームド・ジャッジメント支援の徹底だと学んだ。

現在も、M&Aのアドバイザーとして何が一番重要かと問われれば、クライアントによるインフォームド・ジャッジメントを支援することであり、それがクロージングの確度を高める王道であって、それより重要なことはないと思っている。嘘をつかずごまかさず、次々と発生する問題から目を背けず先送りしない、そのような姿勢がクロージングにつながる。



ガーディアン・アドバイザーズ株式会社
代表取締役社長 兼 経営推進グループオフィサー
佐藤 創

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