買収価格に予算はあり得るか

企業活動は組織的な活動であるため、階層化されたヒエラルキー型の意思決定の仕組みが取られている。そこには階層化されて分権化された意思決定の授権構造があり、各所で行われる日々の活動やプロジェクトの効率性を高めるため、しばしば予算枠が設定される。出張費や接待費などは各社員にまで授権がなされていることが通常であるし、長期にわたるプロジェクトにも予算枠が充てられることが多い。

M&A業務に長年かかわってきてふと最近気づいたことがある。M&Aにおける買収価格にはいわゆる経費やプロジェクト費用のような予算の概念がない。中期経営計画においてM&Aの投資予算を掲げる企業は多いが、それは売上予算のような達成すべき目標値であって支出の予算枠のようなものではない。M&Aの全体予算がある会社であっても、個別の買収案件についていくらまでという予算はあまり聞いたことがない。

弊社でも日々の事業活動で採用やオフィス開設から出張や備品購入まで支出は様々発生するが、小職は予算枠を設けるという発想をなかなか持つことができない。Netflixには出張や娯楽の経費枠はないそうだが、それはどういうことだろうか。予算枠と買収価格決定は何が違うのだろうか。

 

支出予算と買収価格の意思決定の発想の違い


Netflixはそのカルチャーの例として、『出張、娯楽、贈答品といった経費に関する方針はいたってシンプル。「Netflixにとって最大の利益になるよう行動すべし」です。​』というものを挙げている。同社の元最高人事責任者の著書を先日読んだところ、出張費も接待費も金額のしばりはないそうだ。何という自由(緩さ?)かと思うとそんなことはない。その代わり、その出費が何のためになされて何の成果を生み出しているかについては厳しい説明責任が課されており、求められればいつでも十分に説明ができなければ即時解雇もある、という極めて厳しい実態が書かれていた。

M&Aのプロジェクトを開始するときに、プロジェクトメンバーに与えられている予算枠というものは通常ない。M&Aのアドバイザーがクライアントと結ぶ業務委託契約においても買収価格に関する予算枠はもちろんない。意向表明書の提出、最終提案書の提出などの各段階で売手に提示する買収価格を決めていくが、その金額は提出のタイミングで然るべき意思決定を得るものであり、予め枠が定められることはない。最終局面において、代表取締役が取締役会から一定の授権を受けることはあるが、それも最後の1日2日の交渉のためである。

予め授権された大らかな予算枠の中で責任者や担当者が価格決定権を持つプロジェクト予算や各種経費と、価格決定の意思決定が行われるまで価格の妥当性の精査と説明が行われる買収価格ではその発想が大きく異なると思える。

 

予算の弊害としての思考停止と説明責任回避


そもそも予算枠というものは、責任者や担当者の意思決定を容易にするという意味で組織活動に効率性を生み出すメリットがある一方で、致命的なデメリットも生み出し得ると考えられる。

まず、責任者や担当者の思考停止を誘因しやすい。しごく簡単な例でいえば、接待費や出張費に上限額という制約しかなければ、容易に上限ギリギリの店や宿泊先を選ぶ者が増える。活動の目的や他の手段との比較を通じた合理的な判断にはならなくなる。そして、その支出が授権の範囲内である限り、責任者や担当者は説明責任を負わなくなるため、支出の判断は本来の目的からすればいよいよ非合理になりそうである。

Netflixの経費に関する方針は、この思考停止と説明責任回避の弊害を払拭するための方策であると言えるだろう。経費枠がない代わりに厳しい説明責任が求められるため、支出においては常に目的や他の手段との比較において思考が要求され判断力が求められる。

買収価格の決定過程において考えてみると、Netflixのような事後ではなく、リアルタイムの説明責任が求められる。価格の意思決定は最後まで留保されているからだ。M&Aの投資金額が企業財務に与える影響の大きさに鑑みて、予算枠を適用することによる思考停止や説明責任回避を許容することはできない、ということだろう。責任者や担当者に買収価格の意思決定の授権を行うメリットはM&Aにおいてはほとんどないといってよい。

 

予算に類似する概念としての買収能力、財務キャパシティと利益インパクト


とはいえ、買収のご予算はどう考えればよいでしょうか。という問題もある。それは、住居を購入する際に考えるのと同じような観点でM&Aでも考えることができる。

住居を買う場合には、用意できる頭金、借り入れられる住宅ローンの上限額、購入後のローン元利返済や管理費・修繕積立金の支出などからおおよそ予算上限が計算できる。それにより、手持ちの資金や毎年の収入を超えた水準の物件購入金額までが予算の範囲になる。もちろん、だからと言って予算の上限ギリギリであれば買ってもいいだろう、と考える人は少ないだろう。

同様に、M&Aの場合でも、買い手の収益力と財務体質から、買収資金の調達能力=財務キャパシティが導かれ、買収後の利益への影響=利益インパクトが見積もれるため、それを買収できる予算上限ということもできる。ここでも、だからといって目の前の買収対象企業を買収能力の範囲内で決めて良い、という経営者はいない。払えることと払うことは全く異なる。

やはり、M&Aにおける買収価格は、買収対象企業の価値を様々な科学的な調査と分析によって精査して評価し、買収能力や競争環境なども含めた状況の制約条件を考慮し、経営レベルにおいて判断し得るだけの説明をもって決定していくものだろう。

 

予算思考から脱却することの薦め


子供に遠足のおやつ代を500円渡せば、子供たちはほぼ全員500円まで使い切る。その中にはおやつ代が400円であったら買っていないはずのものも含まれているだろう。今はキャッシュレスの時代になったが、過去には、財布に1万円入っている日は1万円まで飲み食いし、1000円しかなければ1000円で我慢する、という生活スタイルもあったはずだ。お金があるから必要でなくても購入する行為からはセレンディピティも期待できなくはないが、行き当たりばったりと表裏一体になりがちになる。

今や日常の商品でも仕事上でのビジネスサービスでも、ものすごく多くの選択肢が世の中に溢れている中で、予算発想ではすぐに予算が埋まってしまう。本当に必要なものを適切な価格で獲得していくためには、思考力と説明力を兼ね備えたNetflix張りの支出方法が各自に求められていると感じる。はからずも、それはM&Aにおける買収価格の意思決定にも通じるところがある。


ガーディアン・アドバイザーズ株式会社
代表取締役社長 兼 CEO
佐藤 創

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